くまのめ

哲学科生が懇切丁寧に書き殴る雑記ブログ。

デカルトの生涯と思想。その人生と「我思う、故に我あり」まで、神の存在証明。

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こんにちは。当為くま@kannso_tekiです。

我思う、故に我あり

デカルトといえばこの言葉。非常に有名です。

しかしどうして「我思う、故に我あり」という思想が導き出されたのかはご存知でしょうか。

今回はデカルトの生涯や思想についてわかりやすく説明します。

当為 くま

というわけで、デカルトさんよろしくお願いします。

デカルト

うむ。よろしく頼む。

デカルトの生涯

デカルト

ルネ・デカルト(1596-1650)はフランス生まれ、近代哲学の父と呼ばれています。

「書物の世界」を学校で学ぶ

1607年にイエズス会の名門ラ・フレーシュ学院に入学。

この学校は特に優秀な生徒が集められていましたが、その中でもデカルトは秀でた成績を残しました。

当為 くま

病弱だったそうですが、学院の生活は大丈夫でしたか?

デカルト

個室もあって、朝寝坊も許されていたから快適だったよ。


学院の卒業後はポワティエ大学で法学と医学を学びます。

「世界という大きな書物」を旅で学ぶ

学院で学ぶような「書物の世界」では確実な知識は得られないと考えたデカルトは、書を捨てヨーロッパを9年間遍歴します。

その後オランダへ。

当為 くま

オランダ???なぜにオランダですか???

デカルト

うむ。それはオランダが経済活動をするのに宗教的にも人種的にも寛容であったからだよ。

当為 くま

現代でもオランダは積極的安楽死を容認したり、個人の自由を認める国という印象がありますよ。

オランダで積極的な執筆活動

デカルトはヨーロッパ遍歴後、オランダで孤独な生活を送ります。

その約20年間に、彼はたくさんの本を執筆。

デカルト

いろいろ書いたのだが、『世界論』は出版を取りやめたのだよ…

当為 くま

えっ?どうしてですか?

デカルト

ガリレオ・ガリレイさんが地動説を唱えて断罪されたからだよ。私の『世界論』は霊魂や精神を用いずとも自然現象を解釈できるという内容のものだったから…怖くてね…

当為 くま

確かに霊魂や精神を否定していると捉えられかねないですね。

この記事でもこのあとじっくり説明しますが、有名な『方法序説』『省察』もこのオランダ期に公刊されました。

女王の招きでスウェーデンのストックホルムへ

クリスティーナ女王

スウェーデンの女王・クリスティーナから、ぜひ教師としてこちらに来てほしいとの懇願の手紙が届き、デカルトはストックホルムに向かいます。

しかしもともと身体の弱いデカルトは、オランダでは午前中は寝て過ごし、午後になってからゆっくりと起きる生活をしていました。

ところがスウェーデンに来てからというもの、毎日のように早朝から女王に呼ばれるという、彼にとってはなかなか苦しい生活を強いられていました。

デカルト

無理がたたったのかデカルトは風邪をひき、のちに肺炎をこじらせ死亡。

スウェーデンに到着してからたった4カ月後のことでした。

デカルト

寒かったのだよ…

当為 くま

かわいそうに…

デカルトの代表作

デカルトといえば『方法序説』と『省察』という本がとくに有名です。

実はこの2つは哲学的な内容がかやや被っているのですが、一般書寄りか学問書かという違いがあります。

ここではこれらの書物について簡単に説明します。

『方法序説』

『方法序説』は、どのようにしたら真理にたどり着けるかという、いわばHow to 本のようなものです。

当為 くま

あれ?『方法序説』はフランス語で書かれているんですね。

当時は学問書といえばラテン語が普通なのにどうしてですか?

デカルト

学問に精通している人だけでなく、読み書きができるような一般の人にも読めるようにして、一般書であることをアピールしたのだよ。

学問書と見なされるとガリレオ・ガリレイさんみたいに異端審問にかけられる可能性があるからね…


『方法序説』というタイトルからもわかるように、あくまでもこの本は序論

その実践編として、『屈折光学』『気象学』『幾何学』があります。これらも全てフランス語で書かれています。

『省察』

『省察』はデカルトの哲学的主著であり、『方法序説』が方法を論じたのに対し、こちらは形而上学そのものについて論じています。

内容としては、主に神の存在や精神の不死性について書かれています。

当為 くま

『省察』はラテン語で書かれていますね。

デカルト

うむ。『省察』は学問書だからだよ。


主著の内容をさらったところで、次はデカルトが考えた真理に近づくための方法について見ていきます。


方法論の説明

デカルトは、真理に到達するための方法として、以下4つの規則を挙げました。

➀ 明証性の規則

私が明らかに真であると認めるのでなければ、いかなることも真として受け入れないこと。

具体的には、

  • 十分なデータがそろう前に判断をしたり、感情に惑わされたりしない。
  • それ自体として明らかであり、且つ他のものと比較しても明らかでなければならない。

➁ 分割の規則

問題に直面したときは、問題を分割せよ。

デカルト

問題は大きいまま解決しようとするよりも、小さく分割したほうがよりよく解くことができるのだよ。

➂ 順序の規則

ここでは、➁分割の規則で問題を分割したときに、どのような順番で解決していくかということが書かれています。

  • 易しいものから順に取り組むこと。
  • 順番がつけにくいものでも、自分なりに順序を想定してから進むこと。

➃ 枚挙の規則

問題を全てクリアしたかしっかり確認せよ。

デカルト

最後にしっかり見直しをして、見落としがないか確認するのだよ。


このような方法論の裏には、デカルトが理性を万人に与えられたものとしていたことがあります。

デカルトは、神から与えられた理性を正しく使えば、誰でも真理に到達できると考えていました。


ゼロから始める

デカルトの方法論においてもう一つ重要なのは、ゼロから始めるということです。

諸学において揺るぎない普遍なものを確立しようとするならば、一生に一度はすべてを根底からくつがえして、土台から新たに開始しなければならない。

デカルト

私も若い頃はたくさんのニセモノを真だと判断していたのだよ。そして、その上に積み重ねた一切のものがどれだけ疑わしいか…

当為 くま

なるほど。一度判断を誤ると、その上に建てたもののすべてが疑わしくなってしまうんですね。

デカルト

うむ。だから、土台から新たに構築する必要があるのだよ。

このゼロから始めるということを言い表した例があります。

バスケットの中の腐ったリンゴの選別法

リンゴ

バスケットの中にたくさんのリンゴが入っています。

しかしその中のいくつかは腐っています。

バスケットの中から腐ったリンゴとそうでないリンゴを選別するには、

腐ったリンゴの選別

一度バスケットをひっくり返し、腐っていないリンゴをバスケットに戻す、というのが確実な方法でしょう。

つまりここでは、腐ったリンゴ=偏見や間違った考えのこと。

確実な真理にたどり着くためには、途中からやり直したりせず、一度ゼロから始めたほうがより確実だということです。

デカルト

スクラップ&ビルドじゃ!!

当為 くま

でも、なんでもかんでも疑ってかかって壊して再構築していたら、日常生活を送れないですよ?

デカルト

うむ。だからあくまでも一生に一度はすべてを根底からくつがえすということなのだよ。私は日常生活を送るためのとりあえずの規則も考えたぞ。

そう、あくまでゼロから始めるのは一生に一度。

ではデカルトが日常生活において用いていた規則について見ていきます。


3つの暫定道徳

3つの暫定道徳とは、デカルトが考えた日常においてとりあえず用いる道徳のこと。

デカルトはなんでもかんでも疑っていたわけではありません。

すべてをスクラップ&ビルドしていると、人は社会生活を送れないということを理解しており、社会生活者としての見解も持っていました。

➀ 政治・宗教的な立場としては保守主義、その他のことは中庸

  • 自分の国の法律と習慣に服従し、幼い頃からの宗教を持ち続ける。
  • 共に生きていかなければならない人々の中で、最も分別のある人々が実際に受け入れている、最も穏健で極端からは最も遠い意見に従う。

デカルト

郷に入っては郷に従え、という感じかな。


➁ 決断と実行における堅忍不抜

  • 自分の意見や行動には、できるだけきっぱりとした態度をとる。
  • どんなに疑わしい意見でも、一度それをとる決意をしたならば、変わらない態度でそれに従う。

デカルト

日常生活における判断の潔さが重要。


➂ 世界秩序の改革よりも自己変革

常に運命よりも自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりも自己の欲望を抑えることに努める。

デカルト

私が思うに、居心地が悪い=エゴであることが多いのだよ。

当為 くま

古代ギリシアの禁欲主義哲学一派・ストア派的ですね。

デカルトの真理にたどり着くための方法はなかなか厳しいものでしたが、一方で社会生活を送ることもしっかりと考慮されているということがわかりました。

ではここからデカルトの思想の中心である懐疑についてさらに掘り下げていきましょう。


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絶対に疑いえない「私」

絶対に疑うことのできない確実なものはあるか?あるとしたらそれはなにか?

デカルトは真理にたどり着くために、絶対に疑いえないものを探すため、思考を巡らせます。

そして、以下ように少しでも疑いの余地があるものは偽として排除していきました。

➀ 伝聞 ×

伝聞

伝聞とは本やニュースなどのメディア、他人の話のこと。

これらは時に誤った情報・デマを流すことがあるので排除。

➁ 感覚に基づく知覚 ×

感覚に基づく知覚

5つの感覚器官(目・耳・鼻・舌・皮膚)から感じ取ったあらゆるもののこと。

例えば目の錯覚のように、これらは錯覚する可能性があるので排除。

➂ 自分自身に直接関わる知覚 ×

自分自身に直接かかわる知覚

これは覚醒や睡眠のこと。

例えば、夢と現実の区別がつくでしょうか。

今生きているこの現実が、夢でないと言い切ることができますか。

もしかしたらあなたは水槽の中に浮かぶ脳で、コンピューターシュミレーションを見せられ続けているだけかもしれません。
水槽に浮かぶ脳

よって、デカルトはこれも偽として排除します。

➃ 現実と夢とに共通のもの ×

現実と夢とに共通のもの

これは個別的なものではなく、一般的なもののこと。机、腕など。

さらにはよりいっそう単純で普遍的なもの。時間、空間、図形などが含まれます。

これについてデカルトは、欺く神の存在を用いて偽とします。

例えば、2+3=5というような計算は一見確実なもののように思われます。

また私たちが三角形を見て、それを三角形と判断するのもまた、確実なように思われます。

しかし、このような確からしいものも、悪しき神が私たちを誤らせているのではないかと考えるのです。

悪しき神

本当は2+3=6なのかもしれないのに、2+3=5であると神によって欺かれているということ。

デカルト

神は絶対的に自由であるから欺くことも可能なのだよ。

こうして疑い続けた結果、デカルトはあることを発見します。

それは、懐疑する私の存在です。

いっさいを疑う私はなにものかでなければなりません。

デカルト

わたしは考える限りにおいて、存在する。
(cogito, ergo sum.)

ここで、「懐疑する私」でさえも欺く神によって植えつけられたものでは?という疑問も出てきます。

しかしむしろ、神が欺くなら私は存在するのです。

私がなにものであるか?、欺かれているのでは?ということを私が考えているであろう間は、確かに私は存在するのです。

よって、

デカルト

私はある、私は存在する。
(ego sum, ego exito.)

この、わたしは考える限りにおいて、存在する。(cogito, ergo sum.)は『方法序説』(カッコ内は『方法序説』ではフランス語)での言葉で、ラテン語 ergo には前提があるのではと誤解を生むような表現でした。

方法序説と省察

しかし、その後出版された『省察』では、私はある、私は存在する。(ego sum, ego exito.)となり、私という対象があるということと、私が存在することが同列になりました。

自己意識

デカルトの思想の上での私は、考える私を対象としてさらに意識しています。

これは意識したものをさらに意識内容にすることができる、自己意識というものです。

例えば、私が猫を見ていたとして、その私は「私が猫を見ている」ということを意識することができます。

自己意識

これは人間特有の意識で、この自己意識があるからこそ、道徳や倫理が生まれます。

当為 くま

自己意識を言語化したのはデカルトが初めて。

思惟実体と延長実体

さて、デカルトの「疑いえない私」について見てきましたが、ここで注意しなければならないのは「私」とは、理性や知性のこと。

肉体は含まれていません。

デカルトにおける私は思考するもの、思惟実体。

一方で物質は延長実体と呼ばれます。

思惟実体の働きと延長実体について、蜜蝋の例で説明しましょう。

蜜蝋とは、ミツバチの巣を形成する蝋を精製したもの。

これに火をつけると、燃える前と燃えた後とでは、「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」の全てにおいて異なります。

蜜蝋の例

しかし私たちは、それが確かに蜜蝋(延長実体)であると判断することができます。

つまり、感覚によって判断しているのではなく、理性によって認識しているということ。

五感からの把握は変わっても、延長そのもの(蜜蝋)は変わりません。

よって、自然とは延長であり、単なる量であるということがわかります。

デカルトは懐疑主義ではない。

当為 くま

デカルトさんって疑いに疑いまくってるけど、もしかして懐疑主義者?

デカルト

うーむ。それは違うかな。

よく言われていることですが、デカルトは懐疑主義者ではありません。

懐疑主義者とは、何も確実なものは存在しないという結論に達します。

例えば、懐疑主義の祖とも言われる古代ギリシアの哲学者・ゴルギアス。

ゴルギアス

彼はこう考えていました。

・真理など存在しない。
・仮にあったとしても我々人間はそれを認識できない。
・仮に認識できたとしても、他人に伝えることができない。

一方のデカルトは、何か確実なものはあるという結論

あくまでも懐疑することを徹底しました。


神の存在証明

さてデカルトが絶対に疑いえない「私」として理性を導き出しましたが、ここでその「私」を保障するものはほかならぬ神です。

よって次に神の存在を証明する必要があります。

デカルトは以下3つの証明により、神の存在を確かなものであると考えました。

第一番目の存在証明「私が持つ神の観念」

みなさんは神とはどのような存在であると考えますか?

当為 くま

全知全能で、完全で、無限で、創造主で…

ではどうして有限な存在である私が、無限な存在者の観念をもっているのでしょうか。

それは無限な存在者である神が、私たちの中に生まれながらに無限の観念を植えつけたからでしょう。

つまり、無限の観念をもった有限の存在者が存在するということは、無限の存在者である神も存在するということなのです。

第二番目の存在証明「神の観念をもつ私の存在」

では神の観念を持つ私の存在の原因は何なのでしょうか。

私が生まれたのは両親がいたからでは?と考えるかもしれませんが、それはあくまでも生物的な生成の原因です。

加えて、その存在を一度生み落とすだけでなく、継続する必要があります。

例えば太陽とその光。

太陽を原因、光を結果とした場合、結果である光は原因である太陽がなければ存在し続けることができません。

同じように私たち人間も、何らかの原因によって保持されなければ、無限に分割可能な時間を超えて存続することができません。

そうなると、やはり私たちの存在の原因は神以外にありえないでしょう。

神は一瞬一瞬を創造しているのです。

連続創造説

無限に分割できる時間。その部分(時間)は相互に非依存的です。

このような考え方を連続創造説と言います。

第三番目の存在証明「存在論的証明」

先ほども触れましたが、私たちがもつ神の観念は「最高に完全な存在者」です。

つまり、あくまでも神は完全でなくてはなりません。

以下のように、神について記していったとしましょう。

存在論的証明

Aは存在するという規定を欠いています。

それはすなわち、完全性を一つ欠いているということになります。

つまり、神は存在しないと考えてしまうと、神は完全であるという神の観念に反してしまうのです。

よって、神は存在するという結果が導かれます。

当為 くま

なんかキツネにつままれたような…

デカルト

え、そう?とりあえずこの証明に対する異論があるから見ていくぞ。


神の存在証明に対する異論

デカルトの神の存在証明を見てきましたが、これに対する異論にデカルトは反論しています。

異論➀ 存在と本質は区別されなければならないのでは?

簡単に言えば、「神である(本質)」ことと「神がある(存在)」ことは区別されなければならないのではないかということ。

例えば、空想上の生き物であるペガサスは思い浮かべることはできても、存在はしません。

同じように、神も想像上のものに過ぎないのではないか?という異論です。

デカルト

反論:神においては存在と本質が不可分である。

デカルトはこう反論します。

聖書にも書いてある通り、神とは「在りて在るもの」。つまり、本質と存在が一緒にあるのだと。

簡単に言うと、神の観念と神の存在は切り離すことができないということです。

他にも、三角形の観念とその存在「3つの角の大きさは180度」は非分離。

山の観念と谷の観念は非分離であることが例として挙げられます。

デカルト

そもそも神が空想の産物で、存在を欠いているのなら、第三の証明でも言ったように完全性を欠いていて神の観念に反してしまうのだよ。

異論② 神が存在することを考えるからといって、神の存在が帰結するわけではないのでは?

確かに、私が山を考える時、谷も考えざるをえない。

しかし、私が神を存在するものとして考えるからといって、そこに神が存在することが帰結するとは考えられないのでは?という異論です。

これにデカルトはこう反論します。

デカルト

反論:「私」の思考が事物に必然性を課すのではない。

そもそもこの異論は、知性(理性)に内在する観念としての神と現に存在する神がどう対応するのか、観念だけの話で止まっていないか?ということを意図したものです。

神の観念

デカルトは、異論のように「私が神がいると考えるから神が存在する」のではないと言います。

あくまでも神が存在するから、私に内在する観念としての神があるのだということです。

デカルトの神の存在証明は結論ありき

当為 くま

デカルトさんの神の存在証明、なんとなくわかったけど、なんかもやもやする…

実はデカルトの神の存在証明は、あくまでも神の存在を肯定する結論ありきのものです。

ただ神の存在など疑いえない時代に、そのタブーに踏み込み、そして物事の究極原理としての神を導き出したことがデカルトの偉業といえるでしょう。

デカルトは無神論者ではない。

さてデカルトの偉業として、ものごとの究極原理としての神を導き出したことと述べましたが、そのようにデカルトにとっての神はさしあたり特定の信仰対象としての神ではありません。

しかしこれが原因で、無神論者ではないかという批判もありました。

デカルト

無神論と言われて叩かれたのだよ…

当為 くま

かわいそうに…

前にも書きましたが、デカルトには暫定道徳があります。そこではあくまでも幼い頃からの宗教を持ち続けるとあり、信仰対象としての神は確かにデカルトの中にあったと言えるでしょう。


まとめ

最後にこれまでのデカルトのお話についてまとめてみます。

デカルトの生涯

  • 学校で書物に触れ、知識を蓄える
  • ヨーロッパを遍歴し、世の中の多様性を学ぶ
  • オランダで積極的な執筆活動
  • 女王の招きでスウェーデンのストックホルムへ

デカルトの代表作

  • 『方法序説』…真理探求の方法、一般向け
  • 『省察』…真理探究を形而上学的に記す、学問書

方法論の説明…真理にたどり着くための方法

  1. 明証性の規則…明らかなものしか真と認めない
  2. 分割の規則…問題は分割して解く
  3. 順序の規則…簡単なものから順番をつけて解く
  4. 枚挙の規則…しっかり見直す

ゼロから始める

  • 確実な知識を得たいのであれば、一生に一度はすべてをゼロからやり直す
  • バスケットの中の腐ったリンゴの選別法

3つの暫定道徳…日常生活を営む上でのとりあえずの道徳

  1. 政治・宗教的な立場としては保守主義、その他のことは中庸
  2. 決断と実行における堅忍不抜
  3. 世界秩序の改革よりも自己変革

絶対に疑いえない「私」

  • 伝聞・5感による知覚・睡眠や覚醒・現実と夢に共通のもの、すべて疑わしいので排除
  • 残ったのは思惟実体としての「私」=理性
  • 自己意識…意識したものをさらに意識対象にできる人間特有の意識。
  • 思惟実体…「私」、精神、理性(× 肉体)
  • 延長実体…物質、場所をとるもの
  • デカルトは懐疑主義ではない

神の存在証明

  1. 「私が持つ神の観念」…有限な私が無限の観念を持っているのは、無限な存在者が存在するから
  2. 「神の観念をもつ私の存在」…神は私の原因「連続創造説」
  3. 「存在論的証明」…神が存在しないとすると、神の観念に反する

神の存在証明に対する異論

  • 異論➀ 存在と本質は区別されなければならないのでは?

→反論:神については存在と本質が不可分

  • 異論② 神が存在することを考えるからといって、神の存在が帰結するわけではないのでは?

→反論:「私」の思考が神の存在に必然性を与えるわけではない

・デカルトの神の存在証明は結論ありき
・デカルトは無神論者ではない…暫定道徳にもあるように信仰対象としての神は存在する


最後に

「我思う、故に我あり」という言葉はあまりにも有名ですが、それに反してデカルトの生涯や思想について知る人があまりいないように思えます。

現代から見るとありえないような結論ではありますが、その筋道は興味深いものではないでしょうか。

当為 くま

『方法序説』はページ数も少なく、例えも多くて読みやすいので特におすすめ。

最後まで閲覧して頂きありがとうございました。

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